ゴールデンウィークも後半にさしかかりました。
四万十にも観光客がたくさん来ています。スタッフのハルさんのお店も連日忙しいようで、本人は長期休暇どころか、長期勤務になっているようです。
世の中には、さまざまな職業がありますから、10連休万歳!とは一概にはいかないですね。
それでも、新しい令和の時代の幕開けを祝いつつ、平和への希望が満ちているのをひしひしと感じます。
令和・・・いい言葉ですね。
この場合の『令』は物事のつやがあるように美しいの意だそうです。
文字通り、そのような時代になることを私も希望します。
さて、ゴールデンウィーク中にやっておきたいことが私にもいくつかあります。
そのひとつが、レイラインの記事を二つ掲載すること!
パソコンがもうずっと壊れていたので、なかなかできなかったのです。
ノートブックのキーボードが壊れてしまい、どうしようもなかったので、ダメモトで、龍体文字が書いてあるシールを貼ってしばらく放っておいたのです。
この文字「キ」と「二」と読みます。キニの組み合わせは治療や壊れた物が直る効果があるようなのです。まったく期待していなかったのですが、本当に直ってしまいました!
古代文字ってやっぱりすごいかもと、びっくりしました。
古代の叡智をとりもどしたいですね~。
というわけで、パソコンも直ったので、さっそく溜まっていた写真を掲載しますね。
淡路島のイベントの余韻が私にはまだあります。
行った方ならわかると思いますが、あのレイラインの巨石のエネルギーに実際に触れて、身体の何かが変わったようなそんな余韻です。そして、なんとも言えない幸福感が続いています。
淡路島のイベントは、3月の春分の日。
もともとは、高知の足摺の唐人駄馬に行ったことで、巨石エネルギーが私に入り、それに呼応するかのように、芦屋の自宅の裏にある六甲山の巨石に誘われているような感覚に囚われて、今年の1月に、実際に六甲山へ行ったことで、古代史研究会を立ち上げたのです。
六甲山地には巨石がたくさんあり、この時は一日では回りきれず、東半分のいくつかを回っただけでした。
前回は、下の地図の弁天岩から六甲山へ上がり、石宝殿、天穂日命古代祭場付近にある六甲比命神社や仰臥岩・雲ヶ岩と、東から西へ向けて訪れました。
天穂日命古代祭場は、六甲山カンツリーハウスという有料の敷地内にあるのですが、冬季は営業していなかったので入れませんでした。
今回は、前回より西に向け、六甲山系ではあるけれど、ちょっと離れた高取山まで行ってみました。行ったのは3月26日なので、ひと月以上前になります。
残念なことに、堡塁岩には行けそうもないと断念しました。でもとても気になるのです。いつかチャレンジしてみようと思います。
今回は、まず堡塁岩のすぐ西側にある三国岩から始めて、西へと向かいました。
今回のルート
三国岩→摩耶山→大龍寺→天狗岩→再度山山頂→高取神社→高取山頂→保久良神社
三国岩(みくにいわ)
杉林の中の小道を歩いていくと、目の前に驚くような磐座が突然現れました。
10mくらいあると思われる巨大さです。この岩からは温かく優しいパワーを感じました。
礎石の上に、平らな巨石がどうみても人工的に4つ重ねてあります。
一番上の岩が、下の石より圧倒的に巨大です。
一番上の岩の正面(南側)は、無数の穴が空いており、この岩は『瀬戸内海の波で洗われた聖なる岩を運んだ』と言われているそうです。
また、『上部には、色々な線や文様が彫られていて、天文石の様相を呈している』とも言われています。
http://iwakura.main.jp/magazine/12-3.pdf
リンクの記事によると、頂にある岩は、横幅5m長さ6mの巨石で、この上からは昔は三国(莵原、矢田部、有馬の三郡)が見渡せたのだそうです。
この記事には、感動しました。
2ページの最後から5ページまで、この三国岩のことが書いてあるので、興味がある方は是非読んでみてください。
一部抜粋すると、
三国岩は、
『神籬全体から見ると南座であり機能的には岩門(いわと)である』
『岩門がこれほどまでに壮大なのだから、中の磐座(北座または奥座)は、如何ばかりかと奥へ進むと。。。』かつては壮大な東西一対の磐座があったのだろうが、私有地になり、失われてしまった。西の磐座は一部残っているようですが。
この三国岩が神籠全体の岩戸であるなら、その神籠とはもちろん六甲山であり、六甲山は古代の太陽崇拝の中心地であったということです。
私が感動した部分は、一番上の巨石に描かれている天文図についての見解のところです。
『歳差円は、天の北極にあって北極星となる星たちの軌道で、周期を約二万六〇〇〇年としている。現在の北極星は、小熊座のアルファー星であるが、その対極には琴座のベガがあるので、今から約一万三〇〇〇年後には、ベガが北極星になり、さらにその約三〇〇〇年後には、白鳥座のデネブが北極星となる。縄文古代の指導者たちはこのことを知っていて、どの星が北極星であったかを岩に刻んで、磐座の建設の時期を書き残した。それを一つの岩に刻んでいる場合が多く、天文石と呼ばれている。』
『・・・・そこで三国岩に戻って天文図を見直すと、確かにそれは小熊座で、小熊の尾の先には特別に大きな穴があり、これが当時の北極星であったことを示している。つまり三国岩の磐座が建てられたのは、現在と同じ小熊座のアルファー星が北極星であった時期で、それは今から一回り昔すなわち約二万六〇〇〇年前ということになる』
(この論文は兵庫県神社庁発行の季刊誌䣓兵庫神祇、第572号より抜粋)
摩耶山(まやさん)
摩耶山は、六項山地の中央に位置する標高702mの山です。
摩耶山の名は空海が天上寺に釈迦の生母・摩耶夫人像を安置したことに由来すると言われています。この天上寺は、大化2年、孝徳天皇の勅願により、インドの高僧法道仙人によって開創されたそうです。
今回は、摩耶山天上寺には行かず、オテルド摩耶のラウンジでお茶をして、ベランダから六甲山の景色を眺めて、摩耶山のエネルギーを充分に受けて、次の目的地、再度山に向かいました。
再度山(ふたたびさん)
六甲山西部にある標高470mの山です。
名前の由来は、Wikipediaによると、空海が入唐するに当たって、船旅の無事と学問成就を念じてこの山(当時「摩尼山」と呼ばれていた)に参詣した。唐から戻った際、無事帰国できたことを感謝すべく、再び(再度)登山し修行した。この伝説に由来するといわれる。
またもや、空海・・・。
私の行くところ、行くところ、空海の痕跡が。(和歌山と四国と六甲山)
一帯、彼はどれほど歩き回り、どれほどのことを蜜にやっていたのだろう。同じ人間とは思えない。常人じゃないということだけはよくわかります。
この再度山の山頂付近には、奈良時代に摂津大夫を務めていた和気清麻呂が創建したと伝える観音霊場があり、現在は大龍寺になっています。空海が旅の無事の祈願し、無事に帰国したときは、お礼参りに来、1週間ほど滞在したそうです。
一週間のご滞在の中、まず錫杖を突いて霊水を湧きださせ、報恩の修法には全てその水を用い、山中の岩肌には様々な仏様の梵字を刻み、山頂付近には亀を刻まれました。
和気清麻呂(わけのきよまろ)。。この方も、何かとご縁のある方で、あちこちで遭遇します。そして、私が尊敬する方の一人です。
さて、その大龍寺。
美しい修法ヶ原池(しおがはらいけ・人工の池です)の傍のの駐車場に車をとめて、ちょっとした山道を上がって来ると、鳥居が。寺に来たつもりが、鳥居?
鳥居をくぐると、その先の拝殿には、大黒天、毘沙門天、弁財天の三天が祀られていました。神仏習合ですね。
上の拝殿とは別の建物。
3つのお堂が並び、それぞれに名前が書いてありましたが、写真に撮ってないので忘れてしまいました。
左のお堂では「剣山に行くように」いわれ、真ん中のお堂では「出雲にも行くよう」に言われ、右では「諏訪にも行ってください」といわれました。
それにしても、密教系寺院は、色々なものが境内にありすぎて、ちょっと混乱します。
ここも稲荷神社があったり、三天を祀る拝殿があったり、不動明王を祭る建物や、本堂やらなにやらがあちこちに。
「奥の院太子堂」という看板を見つけ、大龍寺の裏から上っていきました。
目的は、その付近にあるはずの天狗岩です。
太子堂の裏側に、それは突然現れました。
天狗岩と赤い字で彫ってある岩があり、その岩が乗っている巨大な磐座に気がつきました。
かなり大きいです。そして、山の先に向かって突き出してる磐座の先端に
亀がありました。唐より無事に戻った空海が、御礼参りにここを訪れ、滞在していた一週間の間に彫ったものといわれています。
上に回って見ると亀の形がよくわかります。亀は、空海の師であった恵果阿闍梨がいた長安(西)を向いているそうです。
さらに登っていくと、再度山の山頂に出ます。
神戸から大阪方面の町や海が見渡せる絶景でした。
ここでしばらく再度山山頂のエネルギーを受けて、瞑想をしました。
下から穏やかに突き上げるような温かく確かなエネルギーを受け、空からは宇宙のエネルギーが入ってきて、なんとも心地のよいうっとりした時間でした。
かつては空海もここでこんな風に瞑想をしていたのかもしれませんね。
こうして山で瞑想をしていると、とくに五感が敏感になってくるのですが、このときも敏感になった嗅覚が、猪の糞尿の匂いをかぎ分けて、割と近くにいたんだな、結構強烈だな。。と、それで穏やかな瞑想タイムは終わりとなりました。
山を降りて、再度山公園にある修法ヶ原池(しおがはらいけ)のほとりで、その美しい景色をしばし眺めていました。こんなにきれいな場所があったなんて知りませんでした。ふらりと来て、散歩をしたり本を読んだり瞑想をしてもいいかも。
高取山(たかとりさん)
六甲山地の山の中では西側に位置する。標高328m
上の地図の通り、高取山山頂付近にある高取神社から南西を見ると、連なる山の先に一直線に並ぶように淡路島が見えます。
高取山には途中まで車でいけます。
急な上り坂で道も狭くて不安になりますが、信号で片側ずつ通行させるので、離合できないのではという心配もなく、無事、飛龍寺の霊園の駐車場に辿り尽きました。ここに車を停めさせていただき、あとは徒歩です。
歩くこと5分くらいでしょうか、 公園や茶店を通り過ぎると、立派な鳥居が見えてきました。
何の予備知識もなく行ったので、高取山の山頂にこんな立派な神社があるなんて知りませんでした。
南側から見た高取山。山頂付近に神社が見えます。
登ってきた階段を振り返ると、神戸の町と海の絶景が広がっていました。
ここに立派な神社の拝殿があるのですが、挨拶をして先に進みます。
登りきると奥宮があるのですが、そこも挨拶をして、さらに上へ。
山頂に到着。ここには様々な神が祭られていました。
高取山には、約300といわれるあらゆる神が祭られていて、様々な神社や祠があるのです。
高取山(たかとりさん)は、長田区の民話では、山全体が水没した際に大きな松に絡んだタコを捕獲したということから「タコ取り山」と名づけられたという説があるそうです。標高が300mを超す山全体が水没って、一帯どういう災害が起きたのだろうと目の前に見える瀬戸内海を見ながら、しばらく考えてしまいました。
高取山には巨石らしいものは見当たりませんでしたが、なぜか気になって訪れました。行ってみて驚きの連続でした。都会に囲まれた山の頂きに、下界の喧騒を物ともせず、古より信仰が守られてきた聖地が今でも残っていました。誰が何のために、いえ、きっと色々な方がそれぞれの願いを込めて、その都度必要に思う神を祀り、祠を建てて来たのでしょう。そういう祈りのパワーを感じました。
由緒としては
創祀の源は上古より開けた当山山麓の居住民による、水利をはじめとする様々な山の恵みへの感謝や自然への畏怖であろうが、社伝によると神功皇后摂政元年に、神功皇后が三韓より御帰途に、当山を神奈備の霊地と定め給い、武甕槌尊を御奉斎なされた事をもって御創祀とする。聖武天皇の御代、天平年間に至り、行基が兵庫築港と周辺開拓に当たり、その地より仰ぎ眺められる独立峯である当山に開発守護の神として豊受姫命を奉斎。この二柱の大神が御本社御本殿の御祭神。当山は海上よりの目印として知られていた事から、遠近広く漁民航海者の守護神の坐す御山としての崇敬も生じた。
豊受姫命は俗に高取稲荷大神とも尊称なされ、御分霊の御鎮座は全国に亘る。江戸時代末頃迄は旧西代村の鎮守神氏神としての性格が強かったが、明治期に入り、境内整備が進むと共に崇敬者は激増した。昭和初期に篤志崇敬者によって山麓より御本社に至る参道舗装工事等が完成する事で、参拝の便利は増した。
ここもまた、神功皇后による創祀でしたか。
そして、行基!
私の行くところには、空海と同じくらい行基が出てきます。
行基は奈良時代に、朝廷の迫害にも負けずに、民衆を指導して治水工事をしたり橋をかけたり、布施所を作ったりされた偉大な方ですが、Wikipediaのよると、青森から宮崎まで行基が開基したと伝承される寺院が約600あるとか。その全てが正しいのではないかもしれないけど、行基もすごい。やはり同じ人間とは思えないです。
六甲山の西半分を移動し、山や階段を登ったり降りたりしてきましたが、不思議とまったく疲れていないのは、いただいたエネルギーのおかげでしょう。
さすがにそれぞれパワースポットと呼ばれる場所なだけあります。
それで、もう夕方だったのに、また東に戻って、最後に保久良神社にいくことにしました。
保久良神社(ほくらじんじゃ)
保久良神社は、この地図では、二本のレイラインが交差しているところから、南側(地図では下側)にあります。
保久良神社は、六甲山地の一つ、金鳥山の頂上付近にあります。車では途中までしか行けないので、麓のコインパーキングに車を停めて、歩いて登っていきます。
電車で来られる方は阪急岡本駅から歩いていけます。
登っている途中でだんだん暗くなってきました。
猪の親子にも遭遇しました。
ここも、高取山と同様、毎日登山をしている方が多いようで、暗くなっても平気な顔で登っている地元の方も数名いました。
舗装された道ですが、急な坂道をかなり登り続けてようやく神社に辿り着きました。
鳥居の横になぜか大きな時計があるのですが、ちょうど19時になっていました。
鳥居の前には、有名な「灘の一つ火」が明るく灯っていました。
私は、町を車を運転しているときに、麓からこの明かりをよく見あげていました。
社頭の灯明台の神火は「灘の一つ火」と呼ばれる常夜灯である。その言われは、日本武尊が熊襲遠征の帰途、夜に航路がわからなくなった時、保久良神社の灯火が見え無事に難波へ帰りつけた事にあり、以来「沖の舟人 たよりに思う 灘の一つ火 ありがたや」の古謡通り、広く崇敬され、航海者の一針路となっていた。Wikipediaより
この神社は、神代文字のカタカムナで有名になりましたが、古代祭祀の遺跡の巨石群が境内にあります。今回の目当てはそちら・・だったのですが。
すっかり日が暮れ、暗闇の中では、巨石がよく見えません。
しかも、周りをフェンスで囲ってある巨石には近づけないため、余計に見えません。
ということで、保久良神社は、また後日改めて訪れることにしました。
今回の訪れた場所は、古代から祭祀が行われていたり、奈良時代に祭場になっており、祈りの場として現在に引き継がれいました。
そして、改めて六甲山の凄さと奥深さを知りました。
六甲山にはまだまだたくさんの巨石やパワースポットがあるのです!
剣山や出雲や諏訪に行く前に、まだ六甲山周辺を回らねば!
次回は、六甲山の東側に行った記事を掲載する予定です。