せれなです。
12月22日から24日の3連休、娘と福岡の実家に帰ってきました。
昨年の秋にも日帰りで福岡に戻っていますが、その時は実家には行かなかったので、一年半ぶりに両親と再会しました。東京から弟も帰省しており、福岡在住の姉夫婦も来てくれました。
87歳と85歳の両親は相変わらず元気で、母はおいしい手料理と生来の明るさで、父はまったく衰えを見せない頭の回転の速さとユーモアたっぷりの話術で、私たちを終始笑顔にさせてくれました。家族が集まると、笑いが絶えなくなります。
福岡に着いた翌日、娘のリクエストで『筥崎宮』(はこざきぐう)に参拝してきました。その日は、朝から雨が降っていたのですが、神社に着くのに合わせてくれたかのように急に上がりました。
ここは、私の先祖が宮司をしていた神社だそうです。
幕末の動乱期に、黒田藩寺社奉行を怒らせ、神職を解かれたと聞いていますが、それ以降もお宮の近くで暮らして来たようです。
父が生まれる前に、祖父(明治生まれ)が事業に失敗して家を手放すことになり、別の場所に引っ越したそうですが、私の戸籍も生まれたときからずっとそこ(お宮の辺り)にありました。
そういう縁のある神社なので、私は生まれて間もない頃から数え切れないくらい、ここに連れて来られました。私にとっては知り尽くした神社なのですが、娘は物心ついてからは来たことがないので、行ってみたいと思ったようです。
筥崎宮は、日本三大八幡宮のひとつです。(他は、宇佐八幡宮、岩清水八幡宮)
ご祭神は、応神天皇(八幡神)、神功皇后(応神天皇の母)、玉依姫(神武天皇の母・海の神様)
古録によれば、平安時代の中頃である延喜21年(西暦921)、醍醐(だいご)天皇が神勅により「敵国降伏」(てきこくこうふく)の宸筆(しんぴつ)を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、延長元年(923)筑前大分(だいぶ)宮(穂波宮)より遷座したことになっております。鎌倉中期、蒙古(もうこ)襲来(元寇)のおり、俗に云う神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名です。
筥崎宮といえば、やはり、これが有名
堂々と架けられているこの『敵国降伏』の字を見ると、一瞬、ここが神社であることを疑いたくなります。
文永11年(西暦1274)蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり亀山(かめやま)上皇が納められた事跡は有名で、文禄年間、筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時に、亀山上皇の御宸筆を謹写拡大したものが掲げられています。筥崎宮ホームページ
博多は、鎌倉時代に蒙古襲来が確かにあったという痕跡をあちこちで見ることができる町です。
筥崎宮の参道は一直線に海岸まで続いています。
玄界灘からやって来る敵からこの国を、武神の八幡神とその母(三韓征伐に勝利した神功皇后)のご神威で守る神社でもあったのです。
ちょっと恐ろしい感じもする『敵国降伏』の文字ですが、真意はこういうことだそうです。
武力で相手を降伏させる(覇道)ではなく、徳の力をもって導き、相手が自ずから靡(なび)き降伏するという王道である我が国のあり方を説いているのだそうです。
二回に及んだ蒙古襲来(元寇)では、二度とも神風(台風)が吹き、敵船軍が壊滅状態となり、日本は窮地を救われたのですが、その前線の地であったこの神社は、それ以降、厄除・勝運の神としても有名になりました。
ところで、この神社の名前は、このご神木と関係があります。
神功皇后が応神天皇をお産みになられた時の御胞衣(へその緒と胎盤)を埋めた場所に、標し(しるし)として植えられた松と伝えられています。このことより、母と子の守り神、安産成就の神として昔から信仰されています。
元寇の勝利以来、名立たる武将たちが参詣に訪れた筥崎神宮ですが、私はこの松の前に立つといつも、子の健やかな成長を願う母の優しい愛をより強く感じます。
一の鳥居の右側には、もう新春のお祭りの看板が出ていました。
今から約500年前の室町時代に始まったとされ、昔から盛大かつ厳重に行われている神事だそうですが、起源は定かではないとのこと。
でも、私にとって、筥崎宮のお祭りと言えば、
「万物の生命をいつくしみ、殺生を戒め、秋の実りに感謝する」お祭りです。その起源は「合戦の間多く殺生すよろしく放生会を修すべし」という御神託によるもので、千年以上続く最も重要な神事です。また、一年おきに福岡市無形民俗文化財指定の御神幸(御神輿行列)が行われ、七日間の期間中は参道一帯に数百軒の露店が立ち並ぶ、九州随一の秋祭りです。
7日7晩、様々な神事や数多くの神賑わい行事が執り行われ、参道にはお化け屋敷や射的・ヨーヨー釣り・新ショウガなど約500軒もの露店が軒を連ねて、連立大変な賑わいで、期間中のべ100万人が訪れます。
子どものころから毎年、家族で行っていたお祭りです。屋台で何かを食べた思い出より、お化け屋敷や見世物小屋でのどきどきの方が強く印象に残っています。
母は、50代のある夕刻、家の前の横断歩道で左折して来たスクーターに跳ねられ、頭を強く打って救急車で運ばれました。脳内出血の手術後も、言葉が出ない後遺症に苦しみましたが、当時大学生だった弟が、毎日、学校帰りに病院に立ち寄って、根気強く母に付き合い、言葉と記憶を取り戻すリハビリをしてくれました。もう日常生活は難しいと言われた母ですが、半年後に退院したときには、たどたどしくても何とか、会話ができるようになっていました。
今では、健常人のようにぺらぺらしゃべっていますが、奇跡的に回復したのは、弟と、弟に励まされた母の努力のお陰だと医者も驚いていました。
後日、母は事故の相手がどんな人なのか知りたがりました。
その人が弟と同じくらいの未成年の大学生で、父親を事故で亡くし、障害児の弟と母の三人暮らしの新聞奨学生で、新聞配達をして家に帰る途中で、交差点で左折したきに、母と衝突したことを話しました。
母、その話をきいて、『私でよかった』と振り絞るように言いました。
一言だけでしたが、私には母が言いたいことがわかりました。
その子の方が怪我をして、自分のような障害を抱えなくて良かった。それが自分でまだ良かったのだと言いたかったのだと思います。
私たちは、その子と彼のお母さんに、今回の事故をひきずって生きてほしくないと思いました。だから、もう二度とお見舞いに来なくていいし、母がどうなろうと気にしなくていいと話しました。それよりも、自分の明るい未来を見て生きていくように話しました。
私たち家族はもうその子の名前さえ覚えていませんが、その子がいい人生を送ってくれているかと気になるときが時々あります。母は元気で幸せですよって、伝えられたらいいのにと思うことがあります。
母は、自分の命を助けてもらえたことに感謝し、私たち子どもたちには災難が起きないようにと、それから毎月一日には、筥崎宮にバスで参拝するようになりました。
あれから30年近く、その習慣は続いています。
私が、筥崎宮に来るたびに、子を想う母の愛を感じるのは、古の神功皇后の気持ちに、母の姿が重なるからかもしれません。
私たち家族にとって、母の事故は衝撃でしたが、事故のお陰で絆が深くなったのは事実です。そして、今は、弟の病気がきっかけで、みんなが集まるようになりました。
私たち兄弟も、毎日のように連絡を取り合い、励まし合っています。
本当に優しい家族に恵まれたことに、この歳になって改めて感謝しています。
福岡の実家から戻るといつも、自分がすごく優しい人間になれた気がします。
愛の連鎖反応でしょうか。
人生は長いようで短いのかもしれません。
そのつかの間の時間、共にすごせることに感謝し、家族に伝えることはきちんと伝え、できることは積極的にしようと思います。
と同時に、人にとって最も辛いことは孤独だとも思うのです。
人が孤独に苦しむことがないようにどうしたらいいのだろうかと考えています。
私が関われる人は少ないけれど、その人たちで孤独を感じている人がいるなら、一人じゃないということをわかってもらいたいと思います。
そういう居場所つくりや、関わり方を考えています。
何はともあれ、今、共にいてくれる家族、友人、出会えた全ての人に心から感謝します。
おやすみなさい