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この星が楽園に戻る日を夢見て

母に悟り、京都で悟る

 

一昨日から弟と母が芦屋に来ていたのですが、昨夜、福岡に戻っていきました。同時に、長男もまた一人旅に出ていき、久しぶりに一人きりの静かな夜を過ごしています。

 

弟がなぜ母と、私のところへ来たかと言いますと・・。

 

弟は癌を患い、一年間休職して福岡の実家で療養を続けていました。

 

高齢の父は毎朝、弟の体温を少しでも上げるための朝食を用意しました。

母も、にんじんとりんごのジュースを作り、弟の体に良い献立を考え、カートを引いては毎日買い物に行き、食事を作りました。

 

市内に住む姉は、弟の病院に付き添い、車で送り迎えしました。

私は東城百合子さんの『自然療法』という本に載っていた砂袋を縫って送ったり、効果的な治療法を探したり、メールで励ましたりしていました。

 

それまで、私は5年も実家に戻っておらず、姉や弟とも疎遠になっていましたが、弟の帰省をきっかけに、私も実家に帰ったり、姉とも頻繁に電話で話すようになりました。私が家を出てから30年ぶりにまた家族が繋がったのです。

 

弟は、母の食事と健康管理のお陰か、幸いなことに腫瘍マーカーが正常値に戻ったことと、そろそろ復職をしなければということで、今月末には実家を引き上げて、東京の自邸に戻ることになりました。

 

そのお礼と、もうすぐ母の85歳の誕生日なのでそのお祝いも込めて、母を旅行に誘ったのですが、母が行きたい場所は私のところだったそうです(涙)

 

弟は、私がなかなか行くことができないような芦屋のお店で、素晴らしくおいしい夕食をご馳走してくれました。その時家にいた私の長男も含めて家族4人で楽しく過ごせました。

 

翌日は、タクシーを貸し切って京都観光にも連れていってくれました。

タクシーの中で、弟が私にそっと囁きました。

『お母さんには、涙がでるほど感謝しているんだ。』

 

弟がここまで治ったのは、生活環境が改善したことや、治療が効果的だったのでしょうが、何よりも母のために生きようとしたからかもしれません。

 

母は、善良と楽天を絵に描いたような人です。

私は生まれてから一度も、母が嘘をつくのをきいたことがありません。

人の悪口を言っているのもきいたことがありません。

今思えば、生まれてきてからずっと慈愛の繭に包まれて育ってきた気がします。

 

若い頃は、人がいいばかりで、うまく立ち回れず、時には人に見下されたり利用される母に苛立ったり馬鹿にしたことがありました。ひどい言葉を投げたことも何度もあります。

 

でも、今、まるで菩薩のような顔になっている母を見て思うのです。

人は、ただ優しいだけでいいのではないかと。

 

京都で貸し切った観光タクシーの運転手さんが、案内役を買って出てくださり、訪れたお寺やお庭でも素晴らしい説明をしてくれたのですが、なぜか、最初から最後まで、母に寄り添い、小柄な母に合わせてずっと身をかがめて母に話しかけていました。

 

最初は、この運転手さんの無愛想さにどうしようと思った私ですが、母にだけはとても優しくて、そばを離れようとしないのです。お顔もとても優しくなって驚きました。

 

母に会った人は誰もああいう顔になるから不思議な人です。

私もつい厳しいことを言ってしまったりするのですが、人に与えるものは優しさだけでいいのではないかと、母を見て改めて思いました。

 

何があってもニコニコと笑って、人のいいところだけを見てそれを言葉で伝えてあげる母を見ていると、本当に美しい年の取り方をしている人だと思います。

美しさとは、心のあり方だけだということも、今回悟ったことのひとつです。

 

そんなことを考えたのも、昨日の京都で龍安寺の石庭に行ったからでしょうか。

 

京都が好きでもう何度も行っているのに、龍安寺には行ったことがありませんでした。ある小説家が龍安寺の石庭について書いた随筆を若い頃に読んで以来、私の中でその石庭は特別な存在となってしまい、ある程度の覚悟をしてその庭には臨みたいという思いから取っておいたのです。

 

縁側の真ん中に座って、石庭に向かっているだけで自然と瞑想状態になる不思議な庭です。

 

真っ白な小石と15個の岩しかない庭。

東洋では15は完璧を表す数字だそうです。339度を足すと15。満月は15夜、という風に。

 

だけど、この庭の石はどこから見ても、絶対に15個の岩は見えない配置なのだとか。

人によって見える数は違うけれど、どれだけ多くても14にしか見えないそうです。

肉眼で見えない岩を心眼で見抜くというのが正解らしい。

『ここの岩いくつあるか見えますか?』ときかれて

「15個。あの岩の陰にもう一個ありますね。肉眼では見えないけど。。。」と言ってしまい、家族からものすごく怪しまれてしまいました(私の場合、時にそういうものが能力として見えてしまうだけです)

 

それはなにより、この石庭は本当にすごいです。

この庭に向かっていると、自分の心の中にあるものが白い空間に照らされて次々に浮かび上がってくるそうです。

それをひとつひとつ消して行き、無駄なものをそぎ落として悟りにいたる庭だとか。

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私は、この庭に意識が溶け込み、自分との境がなくなってくるような不思議な感覚を覚えました。そういえば、目の前の庭が浄土を表しているようですが、縁側は、建物との間にあり、浄土と私たちの世界のつなぐ(縁)ものなのだそうです。

 

なるほど、日常からしばし離れ、縁側に座って瞑想をするということが悟りに繋がるわけですね。うーん、縁側がほしくなってしまった(←さっそく欲?)

 

 

今回、金閣寺にも行きました。これも極楽浄土をイメージして作られたとか。

こんな感じの世界をヴィジョンで見たことがありますので、このイメージは確かだと思います。

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実は、金閣寺がまぶしいとか言っているのは庶民だとか(笑)

金閣寺の境内の小高い場所に夕佳亭(せっかてい)という茶室があります。そこから、夕日が当たって黄金色に輝く金閣寺を見ると、まばゆいばかりの輝きなのだそう。でも、金閣寺は17時には閉館してしまうので、庶民がその姿を見ることはできないそうです。特別な人のみが見ることができる本当の金閣寺の眩さ。いつか見てみたいような気もしますが、心のなかで想像する夕陽に輝く金閣寺を想像する方が素晴らしいことなのかもしれません。

 

同じ京都にある銀閣寺は、軒庇の裏にだけ銀の胡粉が貼ってあって、それが池に反射して下方から入ってくる月光を屋内に導入する仕掛けがあったとか。月に一度の満月の夜だけ見ることができる銀閣寺が銀に輝く姿も、私たち一般人は見ることはできないそうです。

 

長くなるので、ここら辺でやめようと思ったのですが、やっぱり書いておこうと思います。

この写真は、金閣寺境内にある龍門の滝、夢窓疎石の庭です。

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 滝の下には滝を登ろうとする鯉に見立てた鯉魚石があります。

この滝を登りきったものだけが、龍になれる。滝の上には登龍門があるということです。

これが、登竜門の謂れとか。

 

命がけで滝を登らずとも、魚のままで一生を終えてもよい。

でも、何か志を立てて滝を登り何かをなそうとする生き方も尊い。

あなたはどう生きますか?と問われている気がしました。

この下の池で欲を捨て(悟り)、欲なき心で滝を上がらねばと思いました。

 

色々な悟りを得た京都旅でした。

 

最後に、訪れた仁和寺の庭から見た五重塔の写真です。

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観光中は雨がぴたりと上がりました。どんより曇り空でしたが、暑くもなく寒くもなく、病みあがりの弟にも高齢の母にもありがたい気候でした。感謝。

 

 

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